6/16 上中下と全巻を一気に読み終えた。
この本は小説だが、登場人物は実在していて、内容も実話にのっとっている。
怒濤な生涯を送る事になる佐藤家の人々の生き死にを12年の歳月をかけて描かれた物語。当事者でもある作家の愛子さん自身も三人称で描かれていることにより、客観的で冷静にまた、ところどころそれぞれの登場人物の視点で感情が盛り込まれて情の暖かさを感じる。
自然に落ち着いて読み進めて行くことができた。
愛子(作家)の父である洽六(こうろく)が女優を目指して上京したシナに狂恋するところからこの物語の悲劇が始まる。でも、読み進んで行くうちにこの佐藤家の人々のキャラクターのおもしろさや行動にヒヤヒヤさせられながらも魅了されていく。
愛子もまた荒ぶる血を受け継いでいて、別れた旦那の膨大な借金を自虐的かと思うほどどんどん背負う。読んでて「えー?なんでもう関係ないのに惚れてもいない男に又お金わたしちゃうの??」と呆れてしまった。でも、彼女はそういうことで段々「損得」や「自分を守ろう」ということに無頓着になり、次第にそう思わなくなることで逆に気負いがなくなり、欲もなくなりラクになっていかれたのだという。
また時代背景や置かれる環境、歳月により、気がつかないところで人格が変わっていく様をみることができる。特に愛子の姉の早苗の急激な変化には想像がつかなかった。
でも、人は変わる。
それも自分が気がつかないところからの影響を思いのほか大きく受けながら。
誰でも、少し人生を振り返ってみると「まさか人がこんなに変わるなんて思わなかった」ということがあると思う。知らず知らずに周りからの影響を受けてこうなってしまっているのだろうし、それは自らももっている要素がそれを作り上げていっていることもあるかもしれない。そういうことが蓄積され、後の人格まで影響を受けてしまうのだろう。
別冊の「佐藤家の人々」という本からの引用。
" 人は外からの力や事件でながされていくんじゃなくて、その人物が本来持っている要素によって流れていくんだと…"
また、私が感じ入ったのは「人は矛盾を抱えて生きていること。だから人は簡単に決められるものではないと言う事。そういったことをすべて受け入れて許していくこと。」
フランスのある女優が同じようなことを答えてた記事を思い出す。芸術家は全てを受け入れ、消化し(理解し)、出す(表現)ことだと。なんとなく通ずるものを感じる。
この本は大きな意味でも人生の教科書的な要素もあるだろう。作家が65歳から書き始めたのだから、当然かもしれない。人生の大先輩。
また「佐藤家の人々」で愛子さんがこう書いている。
'' 私は、「血脈」を書くことによって、この厄介な一族を理解しようとしました。理解しようということは、結果として、愛するということなのだということが、今になって分かります。
とにかくこういう人間が生きて、そして死んでいったのだ、その事実しかないのだ、その事実を受け止めるしかないのだ。(中略)人間が分かるということは、分析したり、解釈したりすることではなく、その人そのものになることなんです。''
血脈の文中
" なぜ好きかとということはそれほど大切なことじゃないのよ。好きーそれだけでいいのよ。理解するってことは愛情なのよ。"
この物語のラストがしんみりとくる。この家族の荒ぶる血がようやく終焉となったのですね。